お茶の水 ニコライ堂の鐘
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朝からニコライ堂の鐘が鳴っている。
昨夜、私は小学校の小さなクラス会に参加した。
仲のよかった友人が他界していました。
ユニークで自尊心が高く勝ち気で、スポーツも勉強も一番、
死ぬのも一番で逝ってしまった。
10才のわたしは、どうしてそんなに急ぐのか、頑張るのか、
いつも彼女をみると 何処かが少し痛い気持ちになった。
自分の世界が他にわかってたまるか、
共有させてあげないぞ、
という気迫がどこかありました。
それから30年ほど経ち、
可愛い三人の子を連れてうちに来ましたが、
なにも変わっていなかったので、
おおきな方と結婚したんだな、と思った記憶があります。
遠州のからっ風が吹く海の近く、
大きな森のある小学校で6年間を過ごしました。
私は名古屋の街の中で生まれましたが、
なぜか身体が弱いことになっていて。
空気のきれいな海の近くで、と両親は考えました。
ちょうどその頃、新聞記者を辞め、著述業に入った
父と合わせて海辺の町へ。
まだ、市電の走っていた賑やかな街しか知らなかった私は、
慣れない言葉
自然の力の強さに
毎日ふらふらしてました。
私たちは、小学校の森の中で
足が木の枝に届くほど
ブランコをこぎ、
鬼ごっこをし、
春も夏も
美しい砂丘のある浜まで遠足に行きました。
いつも日に焼けた埃の匂いがする、
玉ねぎやスイカ畑。
脱いだ靴は
あっという間に取られてしまう波の強さ。
人間より大きな力のあるものがあることを知りました。
今朝、とんぼ返りで駅に着くと鐘が鳴り出した。
用を済ませて外に出たら
待っていたかのように鐘が又鳴る。
悲しみもない。
寂しさもない。
生身でこんなに悲しくないのは、
彼女が自分の世界を概ね完結できたからではないかと。
親にも余命を知らせなかった彼女らしさ。
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